隠岐の島へ行ってきました。 ③ [旅]
二日目 7月24日です。
この日は 道後の西郷港から 島前の西ノ島 別府港へフェリーで移動。
雨は落ちましたが、観光中は曇り、重い雲が垂れ込めて・・・
景色が楽しめそうも・・・"(/へ\*)ウゥ…
↓ 西郷港8:30発~~別府港10:05着 船窓から撮
中ノ島と西ノ島の間を通り 別府港へ入りますが、その間に見えた 三郎岩
大きい順に 太郎・次郎・三郎だそうです。
島前 中ノ島・西ノ島・知夫里島 地図
↓別府港着です。
乗ってきた フェリーしらしま
すぐ近くの遊覧船乗り場へ、國賀海岸巡り定期観光船に乗船。
ここで予期せぬお知らせ。『そと海が荒れて波が高く、途中から 引き返すことになります。』
出航。 周囲の景色の説明を聞きながら船は進みます。
内航用練習船 大成丸。
珍しく 内海で練習船が停泊しています。とガイドさんが、
何時もは外海とのことです。 表敬でしょうか、「練習船の周りを一周します。」
船上の練習生が 気づいて手を振ってくれました。 若者よガンバレー!!!
西ノ島大橋の下をくぐります。
船引運河
西ノ島中央部の細くくびれた部分に、長さ340mの運河があります。
内海と外海を結び、運河が出来る前は、船を陸に引き上げて越していたことから
「船越」の地名がついたと云われています。1915年に完成、運河の幅は 5.5mでしたが
現在は12m。船が行き交えます。
外海に出ました。 船が次第に揺れ、波が船窓に打ちつけてきます。良い画像が撮れません。
ここから隠岐諸島、西ノ島の北西部に位置する自然景勝地、國賀海岸(くにがかいがん)。
隠岐諸島、西ノ島の北西部に位置する自然景勝地、國賀海岸(くにがかいがん)。
日本海の荒波が創り出した、高さ200mを超える大規模な海蝕崖が、
東西に約13kmにわたって続く景勝地で、隠岐國賀海岸とも呼ばれます。
圧倒的スケールの断崖絶壁が連続するその光景は、日本国内のものとは思えないほどの
雄大さであり、隠岐の島随一であるのは勿論、国内屈指の景観美を誇ります。 ネットから
豆腐岩
亀島
かぶと岩
この辺りから更に高波で 思わず うわあ~と声が出る程で 引き返します。
ところが この先が一番の眺めと 見どころだったようで・・・( ̄д ̄)・・・
未練がましいですが、
この先には國賀海岸の絶景と奇岩の数々に 明暗の岩屋(あけくれのいわや)。
ここは全長250mに及ぶ自然が造りだした天然のトンネル(海浸蝕洞窟)
ネットから
再び船引運河を通り、遊覧を終えて 浦郷港 で下船しました。
遊覧船観光が短くて 早めの昼食。
サザエのおかわりが出ました。 これで昨夜から いくつ目のサザエかしら?(๑´ڡ`๑)うんまい
↑サザエご飯
昼食後は 國賀めぐり定期観光バスに乗ります。
バスからの景色もこの天候では、…( ̄д ̄)…………続きは次回に。
ご訪問ありがとうございます。
この日は 道後の西郷港から 島前の西ノ島 別府港へフェリーで移動。
雨は落ちましたが、観光中は曇り、重い雲が垂れ込めて・・・
景色が楽しめそうも・・・"(/へ\*)ウゥ…
↓ 西郷港8:30発~~別府港10:05着 船窓から撮
中ノ島と西ノ島の間を通り 別府港へ入りますが、その間に見えた 三郎岩
大きい順に 太郎・次郎・三郎だそうです。
島前 中ノ島・西ノ島・知夫里島 地図
↓別府港着です。
乗ってきた フェリーしらしま
すぐ近くの遊覧船乗り場へ、國賀海岸巡り定期観光船に乗船。
ここで予期せぬお知らせ。『そと海が荒れて波が高く、途中から 引き返すことになります。』
出航。 周囲の景色の説明を聞きながら船は進みます。
内航用練習船 大成丸。
珍しく 内海で練習船が停泊しています。とガイドさんが、
何時もは外海とのことです。 表敬でしょうか、「練習船の周りを一周します。」
船上の練習生が 気づいて手を振ってくれました。 若者よガンバレー!!!
西ノ島大橋の下をくぐります。
船引運河
西ノ島中央部の細くくびれた部分に、長さ340mの運河があります。
内海と外海を結び、運河が出来る前は、船を陸に引き上げて越していたことから
「船越」の地名がついたと云われています。1915年に完成、運河の幅は 5.5mでしたが
現在は12m。船が行き交えます。
外海に出ました。 船が次第に揺れ、波が船窓に打ちつけてきます。良い画像が撮れません。
ここから隠岐諸島、西ノ島の北西部に位置する自然景勝地、國賀海岸(くにがかいがん)。
隠岐諸島、西ノ島の北西部に位置する自然景勝地、國賀海岸(くにがかいがん)。
日本海の荒波が創り出した、高さ200mを超える大規模な海蝕崖が、
東西に約13kmにわたって続く景勝地で、隠岐國賀海岸とも呼ばれます。
圧倒的スケールの断崖絶壁が連続するその光景は、日本国内のものとは思えないほどの
雄大さであり、隠岐の島随一であるのは勿論、国内屈指の景観美を誇ります。 ネットから
豆腐岩
亀島
かぶと岩
この辺りから更に高波で 思わず うわあ~と声が出る程で 引き返します。
ところが この先が一番の眺めと 見どころだったようで・・・( ̄д ̄)・・・
未練がましいですが、
この先には國賀海岸の絶景と奇岩の数々に 明暗の岩屋(あけくれのいわや)。
ここは全長250mに及ぶ自然が造りだした天然のトンネル(海浸蝕洞窟)
ネットから
再び船引運河を通り、遊覧を終えて 浦郷港 で下船しました。
遊覧船観光が短くて 早めの昼食。
サザエのおかわりが出ました。 これで昨夜から いくつ目のサザエかしら?(๑´ڡ`๑)うんまい
↑サザエご飯
昼食後は 國賀めぐり定期観光バスに乗ります。
バスからの景色もこの天候では、…( ̄д ̄)…………続きは次回に。
ご訪問ありがとうございます。
隠岐の島へ行ってきました。 ② [旅]
隠岐の島 滞在中の気候は、気温は28~29度ほどのようでしたが、私どもにすれば蒸し風呂。
この湿度には閉口しましたが、同行した方々は 雲が掛かっているから未だ凌げるとのこと。
それでも 車を下りて観光 ~終えてバスに飛び込む、ほっ!息がつけました。
書き忘れましたが、億岐家住宅は今でも住まわれています。
次に向かったのは 隠岐国分寺・後醍醐天皇行在所。
旧本堂跡廃仏毀釈で焼失した本堂跡 2007年(平成19年)2月25日、本堂焼失
隠岐国分寺の新堂
2014年(平成26年)9月、本堂再建 撮影しませんでしたのでネットより貼り付け
後醍醐天皇行在所阯碑
・
・
・
かぶら杉のそばに 妖怪の小さなブロンズ像が。
山の中にすむ2~3歳の子どもの姿をした妖怪。 ものまねやちょっとしたいたずらをする妖怪。
隠岐には「武良(むら)」と云う地名があります。
水木しげるさんの本名も 武良というそうで「自分のルーツはここにある。」と確信されたとか。
境港の水木しげるロードを、隠岐にまで延長しようという活動が始まりこの島にも
何体かの妖怪像があるそうで、私が知ってカメラに収めたのはこの一体だけ。(⁻-⁻;
残る3大杉の 岩倉の乳房杉には行けませんでしたので、
隠岐観光情報サイトから お借りしました。
隠岐の最高峰である大満寺山中にひっそりと生き続ける巨木。
樹齢は約800年といわれ、樹高約30m、幹囲約5m、主幹は15本に分岐し、
その分岐した部分から大小24個もの乳房状の根が垂れ下がっています。
周囲は夏でも涼しく、特に雨上がりはとても神秘的な雰囲気を感じることができる。
水若酢神社
延喜式神名帳に明神大社として記される隠岐国一宮で、
本殿は隠岐造りで国指定重要文化財です。
水若酢神社の神様は水若酢命[みずわかすのみこと]という神様を祀られています。
水若酢神社の本殿は、上の形は出雲大社の「大社造」前の方にひさしがあります。
杉の皮で編んでありこれは奈良県にあります春日大社の「春日造」、
社殿の中が、三重県の伊勢神宮の「神明造」、その3つの建築を合わせたものだそうで、
隠岐の風土に合った全国でも隠岐にしかない形のお社、隠岐造りをつくりました。
水若酢神社本殿の屋根
クロスしているのを千木、横に丸太ん棒が三本乗っているのが鰹木[かつおぎ]と言います。
この千木は出雲大社でも見られます。
両サイドが縦に切ってあります、縦に切ってあるときには、その神社の神様は男の神様を、
水平に切ってあるときには、女の神様をお祀りしてあるという風に言われます。
この後、五箇創生館(隠岐の島町の文化資料館)へ。
島前・島後の観光案内(奇岩、史跡、巨木、景勝地、牛付き、古典相撲など)の
臨場感あふれる映像を大型スクリーンで見せていただきました。
また古典相撲、伝統芸能の牛付きなどは模型や剥製などの資料が展示されていました。
一日目の観光日程終了です。
宿泊は 民宿旅館 作田屋。
汗を流してから さあ宴会です。
海の幸がふんだんに、この時期獲れる白烏賊の味は 甘くて軟らかく最高でした。
民謡会の方々が しげさ節・どっさり節 蕎麦打ち踊り・隠岐おわら米とぎ節・鍋のふた踊りと、
楽しませていただきました。 hiro-kanさんも民謡をなさっていたのですが、まさかこの中に?
宴も盛り上がり 楽しい一日目が終わりました。
ご訪問ありがとうございます。
この湿度には閉口しましたが、同行した方々は 雲が掛かっているから未だ凌げるとのこと。
それでも 車を下りて観光 ~終えてバスに飛び込む、ほっ!息がつけました。
書き忘れましたが、億岐家住宅は今でも住まわれています。
次に向かったのは 隠岐国分寺・後醍醐天皇行在所。
旧本堂跡廃仏毀釈で焼失した本堂跡 2007年(平成19年)2月25日、本堂焼失
隠岐国分寺の新堂
2014年(平成26年)9月、本堂再建 撮影しませんでしたのでネットより貼り付け
後醍醐天皇行在所阯碑
・
・
・
かぶら杉のそばに 妖怪の小さなブロンズ像が。
山の中にすむ2~3歳の子どもの姿をした妖怪。 ものまねやちょっとしたいたずらをする妖怪。
隠岐には「武良(むら)」と云う地名があります。
水木しげるさんの本名も 武良というそうで「自分のルーツはここにある。」と確信されたとか。
境港の水木しげるロードを、隠岐にまで延長しようという活動が始まりこの島にも
何体かの妖怪像があるそうで、私が知ってカメラに収めたのはこの一体だけ。(⁻-⁻;
残る3大杉の 岩倉の乳房杉には行けませんでしたので、
隠岐観光情報サイトから お借りしました。
隠岐の最高峰である大満寺山中にひっそりと生き続ける巨木。
樹齢は約800年といわれ、樹高約30m、幹囲約5m、主幹は15本に分岐し、
その分岐した部分から大小24個もの乳房状の根が垂れ下がっています。
周囲は夏でも涼しく、特に雨上がりはとても神秘的な雰囲気を感じることができる。
水若酢神社
延喜式神名帳に明神大社として記される隠岐国一宮で、
本殿は隠岐造りで国指定重要文化財です。
水若酢神社の神様は水若酢命[みずわかすのみこと]という神様を祀られています。
水若酢神社の本殿は、上の形は出雲大社の「大社造」前の方にひさしがあります。
杉の皮で編んでありこれは奈良県にあります春日大社の「春日造」、
社殿の中が、三重県の伊勢神宮の「神明造」、その3つの建築を合わせたものだそうで、
隠岐の風土に合った全国でも隠岐にしかない形のお社、隠岐造りをつくりました。
水若酢神社本殿の屋根
クロスしているのを千木、横に丸太ん棒が三本乗っているのが鰹木[かつおぎ]と言います。
この千木は出雲大社でも見られます。
両サイドが縦に切ってあります、縦に切ってあるときには、その神社の神様は男の神様を、
水平に切ってあるときには、女の神様をお祀りしてあるという風に言われます。
この後、五箇創生館(隠岐の島町の文化資料館)へ。
島前・島後の観光案内(奇岩、史跡、巨木、景勝地、牛付き、古典相撲など)の
臨場感あふれる映像を大型スクリーンで見せていただきました。
また古典相撲、伝統芸能の牛付きなどは模型や剥製などの資料が展示されていました。
一日目の観光日程終了です。
宿泊は 民宿旅館 作田屋。
汗を流してから さあ宴会です。
海の幸がふんだんに、この時期獲れる白烏賊の味は 甘くて軟らかく最高でした。
民謡会の方々が しげさ節・どっさり節 蕎麦打ち踊り・隠岐おわら米とぎ節・鍋のふた踊りと、
楽しませていただきました。 hiro-kanさんも民謡をなさっていたのですが、まさかこの中に?
宴も盛り上がり 楽しい一日目が終わりました。
ご訪問ありがとうございます。
隠岐の島へ行ってきました。 ① [旅]
日が経ってしまいましたが、2泊3日の小旅行でした。
今回の旅行は親睦を兼ねての隠岐の島観光旅行。
北は北海道から 南は熊本の方々との旅行で、この集まりは 平成15年に行われた
財団法人 日本遺族会主催の
『西部ニューギニア慰霊友好親善訪問団』A班遺族(遺児)の集まりです。ジジ殿は遺児です。
戦没場所は違いましたが10日間 亡き父親の戦没地を廻っての慰霊で
同じ境遇で気持ちも通じ合い 年に一度会いませんか?で会を作り
ご主人様・奥様もご同伴で、でスタートしました。
会員は22名(同伴者含まず)。
愛知・大阪・神奈川・京都・岐阜・熊本・埼玉・滋賀・島根・東京・長野・福井 そして北海道。
各地の方が交替で幹事を担当、私どもも3回目で北海道をご案内致しました。
もう2巡目に入り 今年は島根県さん担当で 今回 隠岐の島旅行となりました。
隠岐の島アクセス 隠岐の総合観光情報サイトより
隠岐の島へは、伊丹空港・出雲空港からの空の便と、七類港・境港からの船便。
23日 AM8:30千歳空港発便 ↓
久し振りの空の旅、直行便で伊丹空港へ。
↓ 伊丹空港 12:45発で隠岐空港へ。 島根の方以外はここで合流でした。
隠岐の島が見えてきました。
この日は千歳を出発する頃から雨が・・・そして1日中曇りで厚い雲。
眼下が雲ばかりの空旅で、隠岐の島も曇り。
伊丹で離陸待ちで15分ほど遅れ、13:50近くに到着。
隠岐諸島は、訪ねて見て初めて知ることばかりで・・・・・
本土から隠岐海峡を隔てた北緯36度付近に位置する。
隠岐諸島は島後水道を境に島前(どうぜん)と島後(どうご)に分けられる。
島前は「島前三島」と呼ばれる知夫里島(知夫村)、中ノ島(海士町)、西ノ島(西ノ島町)から構成される群島であるのに対し、
島後は島前三島から島後水道を隔てた島後(隠岐の島町)の一島から構成される。
主な島はこの4島であるが、付属の小島は約180を数える。 ーネット引用ー
私達は島後の隠岐空港(隠岐世界ジオパーク空港)に着いたのです。
懐かしい挨拶を交わし、早速 バスで島内観光に入ります。
玉若酢命神社
玉若酢命を主祭神とする神社で、隠岐造りの本殿・随神門・旧拝殿、ともに
国指定重要文化財になっております。
修理中でした。
八百杉
玉若酢命神社の参道をのぼり、神門をくぐった右側にある、樹高38m、
根元の周囲約20mの県下一の杉の大木。 隠岐3大杉の1つ。 樹齢は千数百年とも2千年とも
いわれ、国指定天然記念物に指定されています。
その昔、若狭の国から人魚の肉を食べて老いることを知らない比丘尼(びくに)がやってきて、
総社に参詣し、後々の形見にと杉の苗を植えた。そして「800年たったらまたここに来よう」
といったところから、八百比丘尼杉と呼ばれ、いつしか八百杉といわれるようになったそうです。
玉若酢命神社に隣接する億家住宅は、国指定重要文化財で茅葺き屋根と隠岐造りが 特徴です。
億岐家は、大国主命の後裔で、
代々隠岐国造、隠岐国国司、玉若酢命神社宮司を務めた社家の家系。
玄関が3ヵ所あります。 位により それぞれの入り口が違ったそうです。
億岐家宝物殿の内部は撮影して居ませんので ネットからお借りしました。
億岐家所有の隠岐国駅鈴、隠伎倉印、玉若酢命神社社家億岐家住宅は、
国の重要文化財に指定されています。
駅鈴、驛鈴(えきれい)は、日本の古代律令時代に、官吏の公務出張の際に、
朝廷より支給された鈴である。
646年(大化2年)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の
設置に伴って造られたと考えられており、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と
駅馬または駅舟を徴発させた。駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、
うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をした。
現在残っている実物は、国の重要文化財に指定されている
隠岐国駅鈴2口(幅約5.5 cm、奥行約5.0 cm、高さ約6.5 cm)のみである。 ーネット引用ー
隠岐の島は 古くから遠流の島として知られ、小野篁、伴健岑、藤原千晴、平致頼、源義親、
板垣兼信、佐々木広綱、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、飛鳥井雅賢などが流されたとあります。
私が知っているのは せいぜい 後鳥羽上皇、後醍醐天皇くらいです。
この島に流された人は結婚は許されなかったそうですが、そこはそれ(^_-)-☆ 本土に帰される時は
一切のものを持ち出すことを許されず、身一つで返されたそうで、ガイドさん曰く
世が世であれば ○○の末裔が・・・・・と笑って話されていました。
長くなりました。次回に続けたいと思います。
ご訪問ありがとうございます。
今回の旅行は親睦を兼ねての隠岐の島観光旅行。
北は北海道から 南は熊本の方々との旅行で、この集まりは 平成15年に行われた
財団法人 日本遺族会主催の
『西部ニューギニア慰霊友好親善訪問団』A班遺族(遺児)の集まりです。ジジ殿は遺児です。
戦没場所は違いましたが10日間 亡き父親の戦没地を廻っての慰霊で
同じ境遇で気持ちも通じ合い 年に一度会いませんか?で会を作り
ご主人様・奥様もご同伴で、でスタートしました。
会員は22名(同伴者含まず)。
愛知・大阪・神奈川・京都・岐阜・熊本・埼玉・滋賀・島根・東京・長野・福井 そして北海道。
各地の方が交替で幹事を担当、私どもも3回目で北海道をご案内致しました。
もう2巡目に入り 今年は島根県さん担当で 今回 隠岐の島旅行となりました。
隠岐の島アクセス 隠岐の総合観光情報サイトより
隠岐の島へは、伊丹空港・出雲空港からの空の便と、七類港・境港からの船便。
23日 AM8:30千歳空港発便 ↓
久し振りの空の旅、直行便で伊丹空港へ。
↓ 伊丹空港 12:45発で隠岐空港へ。 島根の方以外はここで合流でした。
隠岐の島が見えてきました。
この日は千歳を出発する頃から雨が・・・そして1日中曇りで厚い雲。
眼下が雲ばかりの空旅で、隠岐の島も曇り。
伊丹で離陸待ちで15分ほど遅れ、13:50近くに到着。
隠岐諸島は、訪ねて見て初めて知ることばかりで・・・・・
本土から隠岐海峡を隔てた北緯36度付近に位置する。
隠岐諸島は島後水道を境に島前(どうぜん)と島後(どうご)に分けられる。
島前は「島前三島」と呼ばれる知夫里島(知夫村)、中ノ島(海士町)、西ノ島(西ノ島町)から構成される群島であるのに対し、
島後は島前三島から島後水道を隔てた島後(隠岐の島町)の一島から構成される。
主な島はこの4島であるが、付属の小島は約180を数える。 ーネット引用ー
私達は島後の隠岐空港(隠岐世界ジオパーク空港)に着いたのです。
懐かしい挨拶を交わし、早速 バスで島内観光に入ります。
玉若酢命神社
玉若酢命を主祭神とする神社で、隠岐造りの本殿・随神門・旧拝殿、ともに
国指定重要文化財になっております。
修理中でした。
八百杉
玉若酢命神社の参道をのぼり、神門をくぐった右側にある、樹高38m、
根元の周囲約20mの県下一の杉の大木。 隠岐3大杉の1つ。 樹齢は千数百年とも2千年とも
いわれ、国指定天然記念物に指定されています。
その昔、若狭の国から人魚の肉を食べて老いることを知らない比丘尼(びくに)がやってきて、
総社に参詣し、後々の形見にと杉の苗を植えた。そして「800年たったらまたここに来よう」
といったところから、八百比丘尼杉と呼ばれ、いつしか八百杉といわれるようになったそうです。
玉若酢命神社に隣接する億家住宅は、国指定重要文化財で茅葺き屋根と隠岐造りが 特徴です。
億岐家は、大国主命の後裔で、
代々隠岐国造、隠岐国国司、玉若酢命神社宮司を務めた社家の家系。
玄関が3ヵ所あります。 位により それぞれの入り口が違ったそうです。
億岐家宝物殿の内部は撮影して居ませんので ネットからお借りしました。
億岐家所有の隠岐国駅鈴、隠伎倉印、玉若酢命神社社家億岐家住宅は、
国の重要文化財に指定されています。
駅鈴、驛鈴(えきれい)は、日本の古代律令時代に、官吏の公務出張の際に、
朝廷より支給された鈴である。
646年(大化2年)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の
設置に伴って造られたと考えられており、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と
駅馬または駅舟を徴発させた。駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、
うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をした。
現在残っている実物は、国の重要文化財に指定されている
隠岐国駅鈴2口(幅約5.5 cm、奥行約5.0 cm、高さ約6.5 cm)のみである。 ーネット引用ー
隠岐の島は 古くから遠流の島として知られ、小野篁、伴健岑、藤原千晴、平致頼、源義親、
板垣兼信、佐々木広綱、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、飛鳥井雅賢などが流されたとあります。
私が知っているのは せいぜい 後鳥羽上皇、後醍醐天皇くらいです。
この島に流された人は結婚は許されなかったそうですが、そこはそれ(^_-)-☆ 本土に帰される時は
一切のものを持ち出すことを許されず、身一つで返されたそうで、ガイドさん曰く
世が世であれば ○○の末裔が・・・・・と笑って話されていました。
長くなりました。次回に続けたいと思います。
ご訪問ありがとうございます。